ひでまるgglです
テレビのワイドショーを観ていたら、【コロナ観の違い】が人間関係に影響した、という事例を紹介していました
(警戒心の薄い人からの密なイベントへの頻繁な誘いが煩わしい、警戒心の薄さに呆れ、彼氏との結婚はありえないと思った、など)
家族や職場の人と話していて感じていた、「コロナとの付き合い方の個人差」を表現する言葉として、「コロナ観の違い」は、適切な言葉だな、と思いました
コロナ状況下のことを「コロナ下」と書きたい時でも、新聞・テレビ等が「コロナ禍」を多用するので、間違えてるよと思われそうな「コロナ下」を使うのに気が引けます
「コロナ禍」に続く、定着する言葉になりそうな気がします
「コロナ観」に感じるのは、従来の「~観」という言葉に比べ、命に影響する、という点で重みがある、という点と、例えば、同じ学校、同じ会社、同じ地域、など比較的共通項が多かったグループ内でも、細かい属性の違いで、「コロナ観」の違いが大きいという点です
独身か家族と同居か、老親と暮らしているか否か、本人や同居の家族が電車通勤か否か、持病持ちか否か、職場でのコロナ対策の強弱などにより、コロナ観の違いが大きくでてきます
我が家では、子供が幼稚園の年少であった東日本大震災時、「放射能観」の違いが大きかったです。
当時、嫁さまは、子供を連れ、田舎に数ヶ月、長期帰省しましたが、自分はそこまでやるか、と少し呆れ気味でした(今となっては、子供が何か病気を発症した時に後悔しないための正しい選択だったと思いますが・・)
「放射能観」の違いは、福島からどれだけ遠いか、放射能の影響を受けやすい子供がいるか否か等で、大部部は、関東圏の人に影響しましたが、コロナ観の違いは、世界中の人に影響を与えています
冒頭で紹介したように、コロナ観の違いにより、コロナへの警戒心の薄い人からのイベントの誘いへの対応に苦慮している人も多そうです
先日、信頼している大学時代の同級生に2人での飲み会に誘われましたが、子供が首都圏に通学していることもあり、家族感染している可能性もあるので、迷惑かけたくないので・・と断りました
増え続けている新規感染者の状況から、自分が感染しているかもしれない可能性は以前にも増して高まっているので、当面は、自粛生活を続ける必要がありそうです